第12章 細胞膜のダイナミズム
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ニューヨークの振動
細胞膜のなぞ
ボストンにおける私のミッションは、新種の"蝶"を採集することに似ていた
細胞を取り囲み、細胞を守り、その内部に動的な平衡を包み込む細胞膜 細胞膜の薄さはたった7ナノメートル
リン脂質を使って試験管内で人工的に細胞膜を作り出すことができ、これを球状に成形することも可能
もちろん生きた細胞と違って生命現象を内包しているわけではない
この風船をたくさん試験管に入れ、かき回す
温度を挙げて熱運動をさかんにして接触や衝突する頻度を上げてやる
しかし風船はたとえ互いに激しくぶつかり合っても、決して融合して大きな風船になることはない
まして一部がくびれて内部に外部を作り出すこともない
つまり細胞膜はそれ自体、きわめて安定的な構造体
これはバリアートして当然の特性でもある
ところが、この薄い皮膜は生物の内部にあっては、あるときには内向きに陥入して細胞の内部に小胞体という区画を作る すなわち細胞の内部に外部を作り出す
また別のときには、小胞体皮膜は細胞の外側を包む皮膜と融合する
これら細胞膜の運動は、早い場合には秒単位で、しかも自由自在に起こりうる
物理化学的にはきわめて安定で不活性ですらある細胞膜が、生物学的にはなぜかくもダイナミックかつ高速に変化変形しうるのだろうか。
この問いに対して"観念論的に"答えるのは簡単である 細胞膜の内や外、あるいはその周縁には、微細なタンパク質が多数存在し、常に細胞膜と相互作用を起こしている タンパク質はそれぞれ固有の構造に由来する相補性を有している
生命現象が示す秩序の美は、ここでもまた形の相補性に依拠している
多様で精妙な膜動態
ジョージ・パラーディが膵臓を電子顕微鏡で除いたときまず目に飛び込んできたのは、台形をしたこの細胞のほぼ上半分を満たす多数の顆粒だった
顆粒はいずれも大きさと形の揃ったほぼ完全な球形であり、その内部は真っ黒だった
電子顕微鏡下で黒く見えるものは、電子線をそれだけ吸収するものがぎっしり詰まっていることを意味する
彼のその後の研究から、球形の顆粒の内部にはタンパク質が充填されていることがわかった
パラーディが明らかにしたことは、細胞外へ分泌されるべきタンパク質は、細胞内で合成される際、まず小胞体の内側へ送り込まれるということ
小胞体の内側とは、細胞の内部に存在する"外部"
そのあと、小胞体膜の一部が膨らんで、コブのように出芽してくる
分泌タンパク質は、このコブの内部に詰め込まれる
コブはやがて小胞体膜からくびれ取られるように離脱し、それ自体で独立した球体となる
球体の表面は、小胞体膜に由来する膜で覆われ、その内部には分泌タンパク質が内包されている
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その後、いくつかのプロセスを経て、この球体は細胞内部を移動しながら、台形をした膵臓細胞の上辺部分へと参集してくる
この部分は膵臓の細胞にとって、消化管へとつながる分泌管に面した頭頂部にあたる
つまり膵臓の細胞は、アメーバのような不定形のものではなく、ちゃんと上下前後左右を持っている
パラーディの観察した黒色の顆粒はまさに、ここに集った、消化酵素タンパク質を蓄えたのはこの球体群だった
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ついでこの場所で劇的なことが起こる
球体を包む膜の一部と、細胞全体を包む膜の一部が接近し、接吻を交わした次の瞬間、膜同士が融合を果たす
すると球体の内部と外界に経路が開き、空間がつながる
つまり細胞の内部にあった外部が、本当の外部へと開口する
細胞内部で作られた消化酵素が細胞外に出るまでに、多段階の膜動態が関与している
もしこの小さな球体を覆う膜が単にリン脂質からなる薄い膜だとすれば、決して起こることのないダイナミズムが次々と、こともなげに、しかし見事なまでに精妙に進行している
そしてもうひとつ重要な事実は、そのダイナミズムがすべて、この小さな球体を覆う膜の上に存在するタンパク質が持つ、形の相補性によって実現されているはずだということ
未知の"蝶"を求めて
トリバネアゲハを追った博物学者が求めたのは、とりもなおさず世界の構造を明らかにすることに他ならなかった 一体なぜ自然はかくも精緻な造形をなしえるのだろうか
私たち分子生物学者もまた世界の構造を知りたかったのだ
タンパク質を「採集」する方法
新しいタンパク質を「採集」し、それを「記載」するとは一体どんな作業を指すのだろうか
私たちはまず、細胞膜のダイナミズムを司っているタンパク質は、膵臓細胞の中に多数存在する、消化酵素を内包する顆粒の膜状に結合していると考えた
そこで細胞の中から顆粒だけを集めてくる方法を探った
膵臓細胞を顕微鏡で見るとその大きさは高さ10マイクロメートル、上辺10、下辺30マイクロメートル程度の台形であることがわかる
厚みも30マイクロメートルほど
この中に、消化酵素を詰め込んだ、直径1マイクロメートルの球形顆粒が多数存在している
化学的に、一番外側の細胞膜を溶かす薬剤はいくらでも存在する
これで処理すれば細胞は壊れ、細胞内の成分は全て流れ出てくる
しかし細胞内の小胞体やそれに由来する顆粒類もまたすべて細胞膜と同じ膜で作られた構造なので、細胞膜を溶かす薬剤は、小胞体や顆粒をも溶かしてしまう
原始的だが、このような場合有効なのは物理的破砕、つまり細胞をすりつぶすという方法
ガラスの試験管の中をテフロン製のピストンが上下できる器具がある
ピストンはガラスの筒の内径にピタリと合うように作られている
しかし正確に言えば、テフロンピストンは精密な研磨によって、ガラスの筒との間に非常に微小な隙間を持つように設計されているのだ
隙間はおよそ20マイクロメートル程度
このガラス試験管に膵臓細胞を生理食塩水とともに入れる
そして上からテフロンピストンをじわじわとおろしていく
圧力をかけられた生理食塩水は、細胞もろとも逃げ場を求めて微小な隙間に殺到する
この隙間は細胞が無傷のまま通り過ぎるには狭すぎる
細胞はすり潰され、細胞内の小器官、特に直径が1マイクロメートルしかないような球形の顆粒はほとんどがそのまま通過することができる
とはいえこの段階で食塩水中にあるのは、細胞内にあった顆粒だけではない
強化プラスチックで作られた試験管をローターと呼ばれる鋳鉄製の円錐台の中に放射状に並べる
ローターは強力なモーターに直結された軸に取り付けられ、密閉されたドラムの内部で高速回転される
遠心力により、雑多な成分は、重いものほど(正確に言えば密度が高いものほど)早く沈むことになる
遠心機は、ローターのサイズ、回転数、回転時間などが自由に設定できる
この諸条件の組み合わせによって雑多な細胞内成分の中から目的とする特定の成分だけを純化することが可能となる
細胞内成分のうち、最も大きくて重いのはDNAを包み込む核 まずこれを洗濯的に沈殿させる遠心条件で集めて捨ててしまう
残りの成分の中で密度が高いのは、目的とする消化酵素を含む顆粒と、ミトコンドリア
この二つの成分の密度は互いに極めて近いが、顆粒の密度の方が消化酵素を詰め込んでいるため、幾分高い
そこで遠心条件を微妙に調整してやると、試験管の底に、まず顆粒が沈殿し、その上にふわりとミトコンドリアが重層されるような状態を得ることができる
ミトコンドリアは薄い褐色をしているので、顆粒と区別できる
細長いガラスのスポイトで、慎重かつ丹念にミトコンドリア層を吸い出していく
さらなる精製
私たちは今度は化学的な薬剤を浸かって、顆粒の膜を少しだけ壊した
この亀裂から下流内部の消化酵素が外へ流れ出るに任せる
残った顆粒膜を生理食塩水の中にじゃぶじゃぶと何回も泳がせてすっかり消化酵素を洗い流す
こうしておいて最後に超遠心と呼ばれる非常に高速回転の遠心操作を行って顆粒膜を試験管の底に回収する この操作は溶液中に散らばった切れ切れの顆粒膜を濃縮して集めることにもなる
かくして膵臓の細胞の中から特別の成分、つまり顆粒膜だけを選択的に単離精製することができる
私たちは何度も思考を繰り返して最適な精製条件を決定した
精製の出発材料はむろん大型の動物の膵臓を用いるに越したことはない
イヌ1匹の膵臓は、マウス百匹分に相当する
私たちの研究フロアの下の階には、ハーバード大学医学部の名だたる心臓研究チームが陣取っていた
彼らは毎日のようにイヌを実験台に使って心機能のデータを取っていた
彼らの実験が終了すると、心臓や血管に何本ものチューブや電極を埋め込まれたイヌはそのまま安楽死させる